「本を語る、人と繋がる」をテーマに札幌ゼロ読書会を主宰しています、読書セラピストの井田祥吾(@shogogo0301)です。
先日こんなツイートをしました。
ミステリを読んでいてあれが伏線だったのかと感心することが多い一方で、「あの伏線が回収されていない」と言われる作品に出合うこともあります。
記述されたことが全てつながるならわたしの人生は回収されない伏線だらけで、それもたのしいものだと思っています。
— 井田祥吾|札幌ゼロ読書会主宰 (@shogogo0301) June 15, 2021
これについてちょっと深掘りをしていきます。
わたしは日々本を読んでいます。
もはや趣味というよりも生活の一部だと思って本に向き合っています。
ジャンルにはこだわらずに、読みたいと思った本を読むようにしています。
ビジネス書を読むこともあれば、小説を読むこともあります。
小説のジャンルとしてはミステリーが好きです。
ミステリーが好きですがホラーなどの残虐なシーンは好きではありません。
そんなミステリーを読んでいて感じることは、よくこの話を思いつくなということです。
素直に推理が当たっていたなど思うことはなく、いつも作家さんのリードにまんまと引っかかり、だまされるのをたのしんでいるところがあります。
本の感想を見ていてたまにあるのが「あの伏線が回収されていない」というものです。
わたしは伏線というのはあるようでないようなものだと思っています。
誕生日の1ヶ月前に「ほしいものない?」と聞くのは誕生日プレゼントを用意する伏線でしょうか?
小説は虚構なので全てを創り出して書かれるというものではないことは承知しています。
それでも日記を書いていて、それは独立した出来事であってほかの何にも干渉しないことなんてざらですし、そういうものだらけです。
意味があることが文章に残されるとは思いますが、残された意図はそこまで深く考えなくてもいいんじゃないかと思います。
ちなみにわたしが小説の人物になれるなら、朝井リョウさんの『桐島、部活やめるってよ』の桐島くんのような存在です。
読んだことがある方ならそういう立ち位置ねとすぐにわかっていただけるかなと思います。
(eye catching photo by chiho)