今回ご紹介するのは、朝井リョウ『時をかけるゆとり』(文藝春秋)です。
朝井リョウさんによるエッセイで、「ゆとり三部作」の第1作にあたります。
年末年始にかけて三部作を続けて読みました。
こちらはすでに読んでいたので再読となります。
朝井リョウさんは、大学在学中に『桐島、部活やめるってよ』(集英社)で小説すばる新人賞を受賞し、作家としてデビューしました。
本書には、主に大学時代のエピソードが綴られています。
小説で抱いていたイメージとは異なる、等身大というか人を楽しませたいという姿が描かれており、その距離感が心地よく感じられました。
このエッセイで印象的なのは、「お腹が弱い」という話題が繰り返し登場する点です。
書き出しも「私はお腹が弱い。」という一文から始まります。
この小さなエピソードが、読み進めるうちにつながりを見せ、著者紹介の欄にまでつながっていきます。
著者紹介でここまで遊び心を発揮している作家は朝井さんくらいしかいないんじゃないかと思います。
小説からは想像できないようなエピソードが次々と語られますが、どれも無理に意味づけされることはありません。
その姿勢が、この本の帯にある「圧倒的に無意味な読書体験」という言葉と重なります。
読書という行為は、ともすると「役に立つ」「学びになる」といった価値で測られがちです。
本を読んでいるだけで、どこか立派なことをしているように扱われることに、私は少し違和感があります。
褒められたいから本を読んでいるわけではありません。
本は、情報を受け取るための手段の一つにすぎないと思っています。
新聞もそうですし、動画でも本質は同じです。
本を読むことだけが正解というわけではありません。
ただ、自分のペースで、立ち止まりながら読み進められるという点で、今の私には読書という形式が合っているというそれだけの理由で続けています。
だからこそ、読書において高尚さを求める必要はないとも感じています。
頭を空っぽにして読めるエッセイのような存在は、読書を続けるうえで欠かせません。
朝井リョウさんが、小説とエッセイの両方を自然に行き来していることは、その好例だと思います。
数年後に読み返しても、この感覚はきっと変わらないとはずです。
そう思える一冊でした。















