今回ご紹介する本は、山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』(新潮文庫)です。
この作品は課題本読書会に向けて読みました。
山田詠美さんの著作を読むのは、これが初めてです。
主人公は、母と祖父と暮らす中学生・秀美。彼は勉強が苦手ですが、どこか世渡り上手で、自分なりの価値観を持って生きている印象を受けました。
あとがきには、山田詠美さんご自身の印象的なエピソードが綴られていました。
物理の試験で2度にわたり零点を取った際、先生が親御さんに対して「どうしようもないから作家にでもなればいい」と言ったそうです。
その言葉がどこまで影響を与えたかはわかりませんが、結果として、山田さんはその言葉通り作家として活躍されています。
ただ、だからといって「勉強はしなくてもいい」とは、私は思いません。
勉強には、自分の可能性を広げる力があります。学力があれば職業選択の幅も広がり、多様な思考を身につけることもできるでしょう。
もちろん、選択肢が限られても生きていく道はありますし、それを否定するつもりはありません。
でも、最初からその可能性を手放してしまうのは、少しもったいない気がするのです。
また、これからの時代においては、「学ぶ」という行為が必ずしも学校という枠組みの中にある必要があるのかどうかは、見直すべきかもしれません。
学校で学ぶのは、勉強だけではありません。人との関わりの中で育まれるものも多くあります。
何をもって「人として成長する」と言えるのか?
どのようにして自分自身の価値観を育てていくのか?
恋愛を通して学ぶことも含め、人間関係そのものがひとつの学びの場になることもあるでしょう。
先生の言葉は、一般的には正論であり、道徳的に見れば正しいかもしれません。
けれど、その先生自身がどんな人物なのかは、そのときの生徒にはわかりません。
だからこそ、先生の言うことを鵜呑みにするのではなく、自分なりに考えることが必要なのだと思います。
私は、勉強することを疑うことなく取り組んできました。そして、それに対して後悔はありません。
でも、学校教育から離れた今、むしろ「学び」の楽しさを強く感じています。
学校で得た一番の収穫は、「学び方を知ること」だったように思います。
私にとっての学び方とは、全体像を把握し、コツコツと時間をかけて積み上げていくこと。
時間をかけることさえできれば、あとは地道に進めていくだけです。もちろん、効率も大切です。
けれど、生産性ばかりを追い求めると、逆に生きづらさを感じるような気がしています。
心に残った一節を紹介します。
病人にとって大切なのは、その病気が取るに足りないものであると悟らせてくれる周囲の無関心かもしれないと思ったりもするのだ。
山田詠美『ぼくは勉強ができない』(新潮文庫)(p.128)
これは、秀美が風邪をひいたときの思考です。
この一文を読んだとき、私は「障害」についても同じことが言えるのではないかと感じました。
本人がそのことを意識せずにいられるときこそが、一番生きやすいのではないか――そんな気がしています。
この本を通して、「自分は学校で何を学んだのか?」とあらためて考えるきっかけをもらいました。