どこまでいけば文章をしっかりと読めているか判断するのはむずかしいです。私の中のひとつの基準はその本を読書会で紹介できるかどうかというのがあります。読んだ結果紹介したいかはどうか別としてその本について語ることができるはある程度の目安になっています。ただ読書会の発表は「何が書いてあったか」だけを述べてしまうとそれを自分が紹介する必要性がなくなってしまうので自分のことを話す場としても活用をしています。
いずれにしてもまずは正しく読むというスタンスが大事になってきます。発表の前に前提となるものがしっかり読めていないとトンチンカンな発表になってしまいます。たまたま本屋さんで伊藤氏貴さんの『読む技法』(中央公論新社)に興味をもち購入しました。副題には「詩から法律まで、論理的に正しく理解する」とあるようにあらゆるジャンルを読むうえで大切にしたいことが書かれています。
地下鉄に乗っていると多くの人がスマホを使っているのを目にします。それ自体がわるいことではありません。若い人の多くはショート動画を見たり、SNSをやったりしている印象を受けます。特にSNSでは短い文章のやり取りなので意図が正確に伝わなかったり、誤読から不毛な議論を生んでしまうこともあったりするのではないかと思います。断片的に理解をすることにより正しく把握することができないというのが起こっていると感じます。そういう意味では本というのは手元にある以上書き換えることができませんし、わかるまで何度も読み返すことができます。私はわからないと思ってもとりあえず先を読み進める傾向にあります。そうではなくて一旦わかるところまで戻るというのは当たり前ではありますが、取り入れたいと思います。
日本語は非論理的な文章と言われることが多々あります。確かに英語のパラグラフリーディングを学ぶとどうしてそもそも国語の作文の授業でこの補法は取り入れられていなかったのだろうと考えたことがありました。非論理的と言われる要因として、日本語はハイコンテクストな言語であることが挙げれれていました。いわゆる「空気を読む」「行間を読む」というものです。本書でも京都の方の例が挙げれていました。「お茶漬け(ぶぶ漬け)でもいかがですか?」というのはそろそろ帰ってほしいことをそれとなく伝えているものです。言われた側がお腹が空いていたとして、お願いしますと言ってもお茶漬けが出てくることはありません。日本で育った人にとってはそういった空気を読むといったことができても、後から文化に溶け込もうとすると確かに壁になるような気がします。だから日本語はだめなんだではなく、だからこそできる表現もあると思います。
わからない場合には、前提知識が欠けている場合も多いというので複数の書を横断することも大切だと思いました。また、論説文の類で難しく感じる一つの要因として、筆者が思考をしながら書いている場合が挙げられていました。このブログは読書会で発表するかを考えながら書いているので結構散らかった文章になってしまっているだろうと思いました。
文章を正しく読むうえでこういった技術の本を仕入れておくことは大切だと思いました。類書にも触れてみます。















