いつの頃からか積極的に誕生日を祝ってもらうのを避けるようになりました。
SNSの設定からわかる範囲で誕生日を削除しました。
ただ、以前から使っているアカウントに誕生日を含んでおり、変えるのも手間なのでそれはそのままです。
側から見ると何も変わってはいないのかもしれません。
小さな頃は誕生日を迎えるのをわくわくしていました。
誕生日プレゼントがもらえますし、ケーキや好きなものが食べられます。
ずっとエビフライとお赤飯をリクエストしていました。
ちなみにお赤飯は甘納豆ではなく小豆です。
それも大人になれば好きなときにほしいものが買えますし、カフェのたびにケーキを食べることができます。
小さな頃の誕生日のわくわく感は次第に薄れていきました。
それでも祝ってもらうということに変わりはありません。
その意味について考えてみると、岸政彦さんの『断片的なものの社会学』(朝日出版社)にいきつきます。
引用をします。
誕生日をお祝いする、ということの意味が、ながいことわからなかったが、やっと最近になって理解できるようになった。ずっと、どうして「ただその日にうまれただけ」で、おめでとうを言ったり言われたりしないといけないのか、判然としなかったのだけれども、その日だけは私たちは、何も成し遂げてなくても、祝福されることができる。誕生日とは、一年にいちど、かならず全員に回ってくる。何もしないでその日を迎えただけなのに、それでもおめでとうと言ってもらえる。誕生日とは、そういうことだったのである。
岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)(106頁)
これを読んで私は腑に落ちました。
昔は祝われること自体がうれしかったものの、ここ最近は何もしていないのになぁという感覚があるのかもしれません。
それならば、この1年間どう過ごそうかなと考えるくらいでもいいのかもしれません。
たとえそれを覚えておけるのが1ヶ月だったとしても、また誕生日がやってきたときに何か考えることがあればそこに意味があるのだと思います。
年初にも目標らしい目標を立てるのをやめました。
誕生日に関しても決意を新たにというのはありません。
日々の積み重ねのなかで少しずつ成長していけたらいいのかなと思います。
引き続き読書の活動は続けていく予定です。
読書会の開催を中心に色々なことをしかけていけたらいいなと模索しています。
今後ともどうぞよろしくお願いします。















